さて概要をお話したところで、千々に語られている執筆の背景をまとめてみます。
下手するとこれは各解説への営業妨害に当たるのかもしれませんが(笑;)、元になった自伝等は
絶版となったりしていますので、確認をご希望の方には著作リストをもとに古本などをあたって
見て頂けると幸いです。


長江と豚毛
ノベルズ初版の後書や他自伝、中公版の小松左京氏の解説にあるとおりですが、生島氏の父親の
小泉辛吾氏が上海にて米国系電力会社にエンジニアとして勤務した“老上海人”。
実際に長江の奥地まで出られた経験がノートとされ、物語の土台が出来あがりました。但しその
ノートは完全ではなく、全てを聞く前に急逝されたとのことですので生島氏は日中の国交の回復が
成されていない中で手探りで書き上げていたということです。
重慶に本当に豚毛があるのかも確信ないままだったそうですからこちらも驚いてしまいますが…。
あのリアルさは生島氏自身の技術であり書くことへの熱なのでしょう。
確かに当時の調査資料には載っていますので安心して読むことが出来ます。
以下、抜粋しますと当時の物産はこんな状況…。
  …豚毛はブラシの原料となすが年産十萬ピクル(600万kg)に達するといわれ、内三分のニは
  輸出し残余は国内に消費される。中支では四川、最も多く湖南其他長江沿岸に多い。四川
 では栄昌、隆昌、瀘州方面にて白豚毛を産し、黒豚毛は省内各地に産する。…
                         (『中支の資源と貿易』馬場鍬太郎著、S13年 実業之日本社刊)
また漢口からの重要輸出産品として豚毛が挙げられ、日本・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツへ
運ばれたとの記述もあります。
なぜよりによって豚なのと嘆かれる声をファンの方から聞いたことがありましたが、これはご尊父が
若い頃に事実買い付けに行った話がベースなので仕方ないことですね。


題名
…これ、本当に困るんですよ版元が間違えてしまうのは! ねえ、双○サン(怒)!!
当初生島氏が書き上げた際に御本人が付けられたタイトルは『豚の毛』。
流石に見かねたのが当時の光文社社長神吉晴夫氏で、『黄土の奔流』と改題を行いました。
当初は「オウド」と呼ばれたこのタイトル、次に口を指したのが星新一氏で「オウド」と読んでは
「オウト」に聞こえて汚いイメージになってしまうから「コウド」と読むようにすればいいとアド
バイス。これが採用され、光文社ノベルズ初版においては「こうど」と明確にルビうちされています。
なのに現在の体たらくは何だ!と、声を大にして云いたいところですが、こういったエピソードが載った
本自体が絶版の憂き目にあっていては無理もないよなぁとも。
時間の流れには逆らえないもの…なのですかね……。


人物の原型
このシリーズの面白さはなんといっても主人公・紅真吾の棄国人としての頑固さ(笑)と友人・葉宗明の
高潔さにあると思うのですが、それぞれモデルとされたと思われる人物像があります。
紹介する諸作の詳細に付いてはまた別項があるのでそちらを参照頂きたいですが、先ず上げておかなけ
ればいけないのが山中峯太郎著『亜細亜の曙』。昭和6年に雑誌「少年倶楽部」に掲載された少年向け
冒険小説です。
粗筋は悪の組織に国家機密資料を奪われてそれを奪い返そうと言う話ですが、主人公の日本陸軍武官・
本郷義昭(中国名:黄子満)の描写は「ははあ、なるほど」と思わせました。
この人物、年齢は34,5歳で長身・色黒。そして容姿はというと、ちょっと抜粋。
 …額広く眉濃く、眼に炯々たる光あり。鼻すぢ通り、髭はないが、むずと引き締めている唇…
一方の『夢なき〜』(こちらが具体的なので)の紅といえば、
 …濃い眉とその下の冷ややかな光をたたえた無表情な切れ長の眼、日本人にしては高い鼻と
   やや大きいがきりっとひきしまった唇は…(以下略)     
とまあ、眉と眼と口のところが強い印象をもたらします。『亜細亜の曙』は少年文学にしては渋いなという
のが第一の感想でしたが、生島氏ご自身も小さい頃に読んであこがれたと自伝小説に書かれておられた
のでイメージの影響はあったと思われます。
これに性格上の深みがもたらされるのがレイモンド・チャンドラーの描く探偵フィリップ・マーロウのシリーズ。
友人テリ−・レノックスの犯した殺人を幇助したとされての拘留期間中の検事側との会話から。
  「…(略)…たしかにりっぱな人間には会えないが、りっぱな人間なんかに会いたいとは思わない。
  わかってくれないか、グレンツ。あんたはぼくに裏切れといってるんだ。あるいは、ぼくは頑固
  かもしれん。センチメンタルかもしれん。だが、これで稼業のことも考えているんだぜ。
 あんたが私立探偵をやとったとしてみたまえ――わかってるよ、考えただけでもいやなことだ
 ろうさ――だが、ほかに方法がなかったと考えてもらおう。その探偵に友だちを裏切らせたいか」
               (『長いお別れ』R.チャンドラー著 清水俊二訳 早川書房刊)
そしてご尊父の背中と生島氏の望郷が「紅真吾」たらしめるものだといえましょうか…。
モデルの話は何も紅だけのことではなくて、親友・葉宗明にも一応ありますので触れておきます。
実在の設定モデルは小学校時代の親友、孫宗明氏。やはり日中混血で、のちに日本語教授として大学にて
教鞭をとられていた人物。上海の日本学校にて一緒に遊んでいたという事ですが引き揚げの時に別れて以来
再会したのは43年後。黄土シリーズの初期2作はこの間に書かれたもので、やはり幼馴染の存在は日本に
失望していた青年期の生島氏の中に深く残っていたことが伺えます。
性格の面から云えば、葉はシリーズの中では変革に向かっていくという情熱的な面を見せていますが、
この辺りは『亜細亜の曙』の印度国王子ルイカール的。志が高く良家の出です。
そしてそのうえに外貌イメージとして注がれたのがチャンドラーの先述の物語に出てくるテリー・レノックスの
それ。片頬の傷跡の美しい描写には少なからずイメージが重なりますが如何。


誤解頂きたくないのですが、全てが援用によるものだと申し上げているように思われるかもしれません。
ですがこれは決して批判ではなく、生島氏も作家・都筑道夫氏との会話でミステリ小説の技法の話題から
こう発言されてます。
 「だから盗作―写すのは困ると思うけれども、完全に違った世界を確立できれば応用はすべきだと思う」 
              (『生島治郎の誘導尋問〜眠れる意識を狙撃せよ』 1974年、双葉社)
    氏の吸収したイメージが良い具合に調理され、『黄土〜』は出来上がっていったと想像できます。


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