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生島治郎氏 略歴

本名、小泉太郎。1933年(昭和8年)1月25日上海生まれ、幼年期を虹口界隈で過ごす。
1945年2月に日本・長崎へ引揚げ、5月に金沢へ移る。
父の開業に伴い横浜へ転居。横浜翠嵐高校卒業後、早稲田大学文学部英文科へ進む。
1955年早川書房入社。この間杉山喜美子(故・小泉喜美子)と結婚。
これを期に東京へ居を構え、離婚・再婚を経て大田区を終の住処とした。
血液型は自称完璧主義・神経質のA。
デビュー作『傷痕の街』。直木賞は1967年『追いつめる』にて受賞。
2003年3月2日11:44 肺炎により永眠。享年70歳。



※本表は生島氏のエッセイ・私小説、他雑誌記事などを元に纏めたものであるため細部に不確かな点も含まれるかと思います。ご了承下さい。
※敬称略

西暦 (年号)

出来事

代表・注目作

1933 (S8) 電気技師、小泉辛吾の長男として上海で生まれる。  
1939 (S14) 第二北部尋常小学校(41年より第五国民学校)入学。  
1945 (S20) 終戦真近のため長崎へ引揚。長崎県立瓊浦中学校へ入学。
金沢の親戚へ身を寄せ石川県立金沢第一中学校転入。
金沢から横浜へ転居。神奈川県立第二中学校へ転入。
 
1947 (S22) ※学制改革により県立二中は市立保土ヶ谷中学校と県立横浜翠嵐高校へ分化。  
1948 (S23) 横浜翠嵐高校へ進学。  
1951 (S26) 同校卒。早稲田大学文学部英文科入学。

文学サークルにて同人雑誌を出版。青木雨彦らと交遊。

 
1955 (S30) 同大卒。就職難により一度デザイン事務所へ就職。
しかしその間に早川書房にて正社員の募集があり応募。
早川書房入社。〈22歳〉
 
1956 (S31) 『エラリークイン・ミステリ・マガジン』(EQMM)日本版創刊。
編集を担当。
 
1959 (S34) 杉山喜美子(作家・小泉喜美子)と結婚。〈26歳〉  
1964 (S39) 書き下ろしにて作家デビュー。〈31歳〉
EQMM編集長を最後に早川書房退社。文筆活動へ専念。
作品の初映画化。
『傷痕の街』
1965 (S40) 第54回直木賞候補へエントリーされるが受賞ならず。 『死者だけが血を流す』
『黄土の奔流』
1967 (S42) 第57回直木賞受賞。〈34歳〉 『『追いつめる』
『鉄の棺』
1968 (S43) 初の作品TVドラマ化。  
1969 (S44)   『死ぬときは独り』
『男たちのブルース』
1970 (S45)

〜この頃よりプレッシャーから睡眠薬ハイミナ−ル中毒となる〜

 
1972 (S47) 喜美子夫人と離婚。単身生活を開始。〈39歳〉 『さすらいの狼』
1973 (S48) 連続ドラマ「非情のライセンス」スタート。
(シリーズ3部までのロングラニングとなる)
『兇悪の門』
1976 (S51)

〜ハイミナール中毒克服〜

『夢なきものの掟』
1978 (S53) 日中平和友好条約締結を記念し、日中文化友好団の一員として
終戦以来初の訪中。
 
1984 (S59)   『片翼だけの天使』
1985 (S60)

小泉喜美子、泥酔により転落死

元風俗勤務の韓国系女性(京子夫人)と同棲を経て入籍。〈52歳〉
 

『片翼だけの結婚』
1986 (S61) 「片翼だけの天使」50万部のベストセラーとなり映画化。  
1988 (S63) 上海時代の旧友・孫宗明氏と43年振りに再会。  
1990 (H2)     (この後、上海を舞台にした作品がやや増加。) 『総統奪取』
『幕末ガンマン』
1991 (H3)   『乱の王女』
1995 (H7)   『上海無宿』
1996 (H8) 韓国人男性の滞在資格取得のため京子夫人、生島氏と戸籍上離婚。
重度の糖尿病により一時入院。
 
1999 (H11)   『暗雲』
2001 (H13) 脊椎障害のため口述筆記の執筆活動。 『上海カサブランカ』
2002 (H14) 春頃より血栓などを患い入院。  
2003 (H15) 肺炎のため永眠。(70歳)