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文芸春秋 月刊MARCOPOLO 1992.03


イタリアの皮革・アパレルメーカー,
Nazareno Gabrielli社による企画広告。
生島治郎・大沢在昌・西木正明の3氏が
ガブリエリのスーツに身を包み
自分にとってのハードボイルドとは何かを
綴った内容となっています。
左図表題の御仁は大沢在昌氏。

以下は生島氏の頁のみご紹介。








“若い頃、あいつはイクシマではなくて、ナマシマだと呼ばれたことがあった。
 あんまり、生意気だから、イクシマではなくてナマシマなのである。
 そのことを今思うと、顔から火の出るような恥かしさを感じるが、同時にまた、 それはそれでよかったのではないかとも思う。
 若いうちは精一杯背伸びして、肩肘張って、そのあげくに、打ちのめされたり、 失敗したり、赤恥かいたりするのがいいのだ。
 はじめから、訳知り顔で老成していると、失敗もないかわりに、成長もない。 どうせ、年を取れば、それなりに世の中のことがわかってくるのだから、 わからないうちは、せいぜい自分のこだわりを通そうとしてみるのがいい。
 そのこだわりが、個性的なルールをつくることになり、大げさに云えば、 男の美学を磨くことにもなるのだ。
 今の世の中、女性の方が伸び伸びし、ある意味では、生意気にもなっているが、 その分、背筋がピシッと決っている。
 男の方は、なんだか自信なげである。
 しかし、自分の方に合わせてくれるばかりの男を、女性は魅力的だとは思わないだろう。 それではあまりにも頼りなく、牡の匂いがしないからだ。
 男は自分のこだわりを持たなければならない。男は自分のルールを定めなければならない。 男は打ちのめされても、キッと、首をもたげていなければいけない。
 そうやって、肩肘張って、生きているうちに、自ずと自分の限界がわかり、 自然体とはなにかを心得てくる。
 私は五十歳になったとき、すっと肩の力がのけるのを感じた。同時に、 それまで肩肘張って生きてきた自分を、やや客観的に見られるようになり、 その姿に滑稽味を感じるゆとりも生れてきた。
 六十に手が届こうという今になっては、ただもう自然体で生きるしかない。 つまりは、自分の楽しみの赴くままに仕事をし、生きてみようと思うばかりである。
 つまりは、ある程度、虚心になれたということかもしれないが、老いのせいで、 エネルギイが失せたということかもしれない。
 それでもなお、こだわりを持ちつづけたいと思う気持ちはある。 他人は生臭いと云うかもしれないが、六十になったときの男の果実はなにか と考えるところがある。
 二十代、三十代、四十代―男盛りと云われるそれぞれの年に、 男は自分で育てた果実をむさぼる。熟していてもいなくても、 自分が育てた果実であればそれでよい。
 そして、五十代、六十代、あるいは七十代になっても、男は自分の果実にロマンを寄せる。
 男は夢を食わなくては、生きていけない動物なのかもしれない。”

―――――「夢を喰う」生島治郎