■ 生島氏との思い出 ■


2003年3月5日の「お別れの会」において生島氏に近かった作家諸氏から
弔辞ではなく思い出を語るということで述べられた内容の一部です。
一通り各誌媒体での発表も終わったようですので、未掲載を含めお伝えします。
メモを取ることは憚られましたので一字一句が正確ということではありません。
若干の方のコメントが明瞭でなかったため省いた部分もありますが
悪しからずご了承下さい。






□ 佐野洋氏

     生島と初めて会ったのは副島(正実)君が彼を編集の仕事で連れてきた時だった。
     自分の作品を評して「最初は何となく野暮ったかったけれどだんだん上手くなって
     きましたね。」と、当時27歳だった生島は云った。普通年長の人間に向かってそんな
     口をきく生意気な奴もいないが、不思議と怒りが湧かなかった。
     先に逝くのは年上の自分のほうだと思っていたのに生島が先に逝ってしまった。
     彼は死んだけれども私の心にはずっと生き続けている…。



□ 北方謙三氏

       「人前で絶対に泣くな、かっこつけていろ」と生島さんには教えられたので
     訃報の連絡を受けた時は辛かったが堪えた。
     夜中の2時に電話をかけてきたり、結構人懐こくて寂しがりやだった。
     彼は新人や後輩の教育に熱心で、あんまりに大沢(在昌)のことを心配するので
     「先生、俺は…?」と云ってみたら「お前は心配してない」と素っ気無い返事を
     頂いたことがある。新人や後輩を育てるのに熱心で「俺は作家であるけれども
     編集の目も失いたくないんだ」と云っていた。



□ 黒鉄ヒロシ氏

     寂しがり屋な人だとおもった。夜中の電話で延々4時間、そんな暇があるなら
     書けば良いのにと思ったこともあった。(笑)
     自分は生島さんのことや小説のことは不勉強で、あの"タフでなければ…"の名句
     の訳に疑問を投げかけたことがある。その訳の説明を電話で2時間してくれた
     生島さんに、「もしかして、生島さんがあれを訳されたのですか?」と聞いたら
     「そうだ。」と。…その訳の説明された内容は、今はもう覚えていない…。




□ 阿刀田高氏

     生島さんと近いお付き合いはあまりなく、推理小説協会で理事をやっていらした
     時にご一緒した。当時彼は作家の稿料を上げようとしていたが、難しい話だと思って
     自分はあまり賛同はしなかった。やはり出版社側の反発に合い、その後の彼は直ぐに
     自分の非を認めたが、その引き方の潔さは生島さんならではと思った。
     彼は酒を飲まなかったので、酒飲みの自分とは打ち解けて話す機会が無かったが、
     尊敬する人であった。




□ 大沢在昌氏

     作家協会のゴルフコンペの時にホールインワンをとった作家氏がいた。
     そんな賞など作っていなかったので、当時理事であった生島さんに「どうしましょう?」
     と尋ねたところ、にやっと笑って「追放してやろう」と云ったのが今でも強く印象に
     残っている。
     自分は長いこと売れない作家でありつづけたが、「見込みのある奴とない奴は判るんだ」
     と云い、「自分に年内に全部(一作の)を書き上げろ、俺との約束は破れんだろう?」と
     云われて必死に書き上げたのが『新宿鮫』だった。
     直木賞を受賞した時、帰りの車中で生島さんはこう仰ったのである。
     「見込んだ奴は皆必ず芽を出したけれども、お前が一番時間が掛かった…。」